パンデミックのさなかに思うこと

私が暮らしているスイスで、新型コロナウイルスの感染者がはじめて見つかったのは今年2月の終わりのこと。それから毎日のように感染者が1人2人と増えてゆき、3月のはじめに一人目の死亡者が出現。
あれよあれよという間に感染者と死亡者の数がうなぎ上りに増加していって、スイス連邦政府がロックダウン宣言をしたのが3月16日のこと。3月17日から開始されたロックダウンは現在の5月13日も続いているのだけれど、6月15日にはドイツ、オーストリア、フランスとの国境を全面的に開放することが決まったらしい。外出自粛要請は引き続き遂行されているものの、現在は感染者や死亡者の増加数は激減し、ほとんどのショップが営業を開始したので街は通常の姿を取り戻しつつある。

ソーシャルディスタンス2mは義務となっているので各ショップには入場制限があり、あちこちに2m間隔の行列が出来上がっているという異様な様も、だんだん見慣れた光景となってきた。

美術館や学校などの公共機関は現在も閉鎖されたままで、通常はオフィースワークのウチの人も今月末までは在宅ワークを継続。(その後はどうなるかまだわからない)

不便を感じる事が全くないわけではないけれど、それほど大きな変化のない生活を続けている私は、いつも通りに極めて平穏に暮らしている。

 

スイスではマスクを付けることが義務付けられていないので、チューリッヒの中心部でマスク姿の人はあまり見かけない。(たぶん100人に1人とか、その程度)
公園の芝生の上は、お天気の良い日は外出自粛規制中とは思えないような賑わいとなっていて、ついこの社会情勢を忘れそうになる事もあるほど。
さすがにお店が閉まっていた期間の商店街はひっそりとしていたけれど、規制が始まった2ヶ月前くらいから春の陽気が続いたためか、もはや人々は家の中にどまってはいられないという感じで、川や湖沿いの散歩道、公園などは通常と変わらない風景となっていた。

スイス政府は外出を禁止してはいないので、散歩やジョギングに出ることは全くもってルール違反ではないのです。
あまりに公園に人が増えるとソーシャルディスタンスは保てなくなるので、警官が折を見て帰宅を促す警告をマイクで放っているけれど、警告後は一時的に人は減るものの、すぐにまたいつもの状態になると言う…(笑)警官も呆れている(笑)

スイス全土がそうではないのかもしれないけれど、私の行動範囲内であるチューリッヒ市内の地域には、そんななんとも長閑な雰囲気が広がっている。

 

 

日本の皆さんにはひょっとして異様に映るかもしれないが、私の知る限りでこの現状を批判しているスイスの人は一人もいない。全面的に肯定はしていない人も、「公園でピクニックはちょっとやりすぎだよね」くらいな感じで、皆でこぞって責めるような雰囲気は感じない。

日本の風潮が集団的な意識を重んじる傾向にあるものだとしたら、こちらは個人の考え方の自由を重んじる風潮があるからなのか、日本ほどセンシティブになっている人を見かけない。
かと言って無関心なわけでもないのだけれど、実質的に直接被害が及ばないのなら、他人の行動をいちいち干渉しないのがたぶんこっち流

 

私はこちらの暮らしが長いこともあり、そんな空気を心地よいと思うほどに慣れ親しんでしまっている。
だから私がパンデミックの中を至って平穏な気持ちで過ごせるのは、海外で暮らしているからなのだと考察するのは簡単なのだけれど、実際のところはそれだけではないのだろうと思っている。

だって日本の中でも、それほど不安に苛まれる事なく普通に過ごしていらっしゃる方もおられるもの

そして日本を遠く離れて海外で暮らしている人の中には、日本人の集合意識の影響を強く受けている方もいらっしゃる。

だから住んでいるところは関係ないのかもしれない。もちろん多かれ少なかれ影響は受けるだろうが、どこに意識を置くかは、結局のところ自分の意思で決めているのだと思う。

 

今の時代はネットで世界中の情報が簡単に入手できる。
だから海外で生活していようとも、日本のTVを見て、日本の友人知人と普通に連絡をとって、日本のネットショップで買い物をしたり、日本のオンラインスクールで何かを学ぶ事も、誰もが簡単にできる。

リモートワークさながら、体はどこにあろうが情報が欲しいところへ瞬時にアクセスできる時代だ。

だから日本人である私も、どっぷり日本とつながって生きる選択もできる。
けれど私はこちらの暮らしも気に入っているから、時と場合によって欲しいとこどりで、日本と世界を移動する。もちろんそれは実際に移動するのではなくて、ネット上で日本とつながったり、こっちで用を足したり、はたまた他の国へもアクセスしてみたりするという話。

日本は大切な故郷であり、言語を最も使いこなせるのは日本語に他ならないけれど、意識の置き場所は世界中を自由に動けるあり方が私は気に入っている。

もちろん日本で暮らしている方が、ネット上で意識だけで世界中を飛び回る事も可能なわけだ。

 

意識の置き場とは視点のこと。つまり、何を見る選択をして生きるかということだと思う。

私たちは基本的に自分の目の前に広がっている世界しか生きられない。けれど、ニュースを見るのか見ないのか、SNSを見るのか見ないのか、外へ出てみるのかみないのか、いつでも自分で選択して、その結果なんらかの情報を受け取っている。

たとえば、同じ街で、同じアパートで暮らして、同じ会社で同じ仕事をしている2人がいたとする。パンデミックでリモートワークをするようになって、2人が自宅の同じ部屋から仕事をしていても、1人は感染に怯えて外出を恐れ、未来に不安を抱いて生きる。もう1人は状況を受け入れつつ、ルールの範囲内で楽しみを見つけて生きたいと思っている。

地球のほぼ同じ座標上で生活していても、それぞれ興味がある世界が違い、それぞれ目にする情報が違うから、パンデミックの受け取り方も全く違ってくるという話。

何も世界中に意識を広げなくったって、日本という一つの国の中にも、様々な思想を持った人たちが様々な発信をしている。どんな情報にアクセスするかは自分次第なんだ。

 

一人一人が違う視点を持っているのは極めて当たり前のこと。

一人一人が同じ出来事に対して、それぞれ違う解釈をしても、普通のこと。

正しいも、間違ってるもない。

みんな違っているのがきっと当たり前。

 

それはパンデミックが起こっていようがいまいが、ずっと前からそうだったはずだ。

だけど世界中がパンデミックを同時に経験している今、大量の情報が溢れる中で様々な考え方や生き方をする人々を目撃して、改めて私はそれに気づいた。

だったら違いを批判しあうのは無意味なのではないか?
強制的に一つの枠の中に押し込めようとするのは、不自然なのではないか?

だってもともとみな違っているのだから。

 

だから私は、自分のアンテナが向く方へ進んで、今ここにいる自分の感覚をめいいっぱい感じて、自分を懸命に生きようと思った。
もはや人のなりふりにかまっている場合ではなくて、今の自分を生きるべきなんだと。

それが一人一人に与えられた使命のような気がした。

 

 

実は私も一時期は、ネットの情報を見て外へ出ていくのが怖いと思った。ロックダウンの始まりの頃は、世界中から恐怖に慄いて警戒を煽る人々の声ばかりが目についてしまった。

でも、私が暮らしているこの地区の状況は実際にどんな感じなんだろう?と思った。
ひとまずネットの情報は脇に寄せておいて、きちんと自分で見てみようと意を決して外に出ることにした。そうしたら実際には、予想外にも穏やかな世界が広がっていた。それが私の世界の現実だった。

 

ネットの情報が間違っているのではないと思うが、それらは私以外の誰かがその人の目で見て感じた状況に過ぎない。

人はそれぞれ違った視点で何かを見て考察するものだと思っているから、たとえ誰かと同じものを目の前にしたとしても、私がその誰かと違った見解を示すことは、ごく当たり前で頻繁に起こり得ることだと据えている。だから自分の目で見て、肌で感じて、自分の置かれている状況を自分なりに判断する必要があると思った。

安全な家にいながらにして手に入る情報のみに頼るのではなく、現実を自分で感じて答えを出す選択をしたのだ。

 

結果、私の生活は意外なほどに何も変わらなかった(笑)

いや実際には、食料品以外は買い物に行けなかったし、レストランやカフェも閉鎖されていたから外食は必然的に諦めるほかない。
けれど従来から『おうち時間』が長い生活だったから、絶対に外せない楽しみや習慣を失うことはなかった。

世間ではそれを『引きこもり』と呼び、ネガティブな意味を含むのかも知れないが、私はそんな生活がもともと好きだった。だから世間に引目を感じることなく、ますます『おうち時間』を満喫できるようになったのは、ひょっとして都合がいいのかもしれない。

 

かと言って全く外出をしないわけではなく、週に1回(時々2回にもなる)の買い物と、週に1、2回の散歩へは出ている。

死因はコロナに限ったことではないから、自分たちの健康を保つために散歩は必要だと思っている。
ウイルスの感染を恐れるあまり、体が鈍って他の病気になってしまったら本末転倒だと思って決行することにしたのだが、結果として地域の人々は普段と変わらぬ調子でジョギングしたり散歩したり、公園でピクニックしているのを見て、現状に対する恐怖心は消えたと言っていい。

私はここでは外国人だから、人々から偏見の目で見られるのではないかという不安も、楽観的でおおらかなここの人々を見ていたら、そんな疑念を抱いた自分が少し恥ずかしいと思った。中には偏見がある人もいるのかもしれないが、それが私にはほとんど目に入らないほど、フレンドリーに対応してくれるショップの定員さんたちの笑顔が眩しい。

 

 

先週の日曜日、初夏のような良いお天気だったので、今シーズン初めて自転車に乗って市内を走ってみた。
歩道に並ぶ木々が新緑の美しい緑の葉を茂らせる木漏れ日の中を、爽快な気分で自転車で通り抜ける。

5月の初めからお店を開けているジェラート屋さんに立ち寄り、自転車を止めて二メートル間隔の行列に並ぶ。
もともとこのジェラート屋さんには行列ができるのでいつものことだが、二メートル間隔に並ぶので一際行列は長い。

子供も大人も笑顔に包まれて、誰1人として行列に並ぶことをストレスには感じていないように見える。ジェラート屋の店員さんを含め誰もマスクをかけていないけれど、それを不思議に思う人も疑念を抱く人もいない。

パンデミックの真っ只中だなんて、きっとみんな忘れているんじゃないだろうか、そんな気さえする。

ここにはそんな風に時が流れている。

 

でもそれは、私がそんな世界を見たいと望み、自ら選んで映し出しているものだと思っている。

それは誰もが自由に選択できるものだと思う。

 

コンピューターやAIなどのテクノロジーが急ピッチで進化を遂げる世の中だけれど、私たち人間は自然の一部なんだということを、誰もが忘れてはいけないんじゃないかと私は思っている。

自然の一部として生きるということは、一人一人が自分のリズムで生きてゆくこと。自分の感覚を大切にして生きてゆくこと。

 

現実に抵抗するのではなく受け入れて共に生きることが、私の感じている心地よい生き方で、パンデミックによるこの情勢がいつまで続いても、それに順応できる私でありたいと思う。

 

 

なんとなく今を生きる自分の気持ちを、文章に残しておきたいと思いました。

取り留めもなく長い呟きを連ねてきましたが、最後までお読みくださった方、ありがとうございました。

 

 

 

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